はい、上田の続きでございます。
前編ですべて回ってしまいましたが、
地図を見てください!
常に上田城の周りをウロウロ o(- ̄*o))))…ウロウロ…((((o* ̄-)o
ルート配置うまくいってませんがw、城内を何度も通り抜けています。
上田城と言えば!
話題の真田 昌幸氏が築城し、徳川勢を2度も退けた、実戦のお城です!
関ヶ原の戦いの後に、徹底的に破壊されてしまい、現在残っている遺構は、寛永年間に仙石氏によって再建されたもの。
つまり、真田氏が住んでいたころのお城はナッシング!
駄菓子菓子!
仙石氏復元の上田城は、真田氏時代の復元であったという見方もあり、(だよね~。石垣とか堀の形とか、1から作るとはいかないよね~)、配置は変わらないだろうといわれています。(と説明看板にあり)
だったら、変わらないものもあるハズ!
そんな上田城で、真田の痕跡を探します。!
上田城東虎口櫓門前です。
真田 信之が、松代へ転封するときに、父の形見として松代へ持っていこうとし、あまりの大きさに断念したとの逸話のある大きな石です。
実は、なんでその真田石が、仙石氏築城の上田城の石垣にあるのかずっと不思議だったのですが、上に書いたように復元だったかもしれないと読んで、納得。
太郎山から切り出した、緑色凝灰岩です。
ちょうど通りかかった時に、ツアーを率いていたガイドさんが、この石のことなのかわからないんだけれども、
「雨にぬれると緑色に¨」と解説していました。
今度はぜひ、雨の日にも来たいものです。
空堀です。
左下の、城内の案内図からとった地図(1647年の城内図)をご確認ください。
ここにもから堀と記載があり、当時すでに空堀であることがわかりますが、写真の中央矢印の箇所に、排水口があります。
なので、真田氏の時代の水が入った堀があり、その石垣じゃないかと言われています。
( ・Д・)<・・・・・・なんか、この展開どこかで見た。
・・・わかる?>( *・ω)テレ
最近、測量の日で表彰された番組「ブラタモリ」の、お正月特番、ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 真田丸スペシャル(放送2016年1月2日)にリスペクトしてます。
( ・Д・)<んじゃ、追っかけてたのは、真田の痕跡じゃなくて¨
実はタモリさん>( ̄ー ̄) ニヤリ
( ・Д・)<・・・・・・
表題にも?がついているデショ>( ̄ー ̄) ニヤリ
や、だって、テレビで紹介されたところを自分の目で見に行きたいじゃない。
地元で何度も行っている上田城。
真田の城は壊されてるんだよ。ふーん。
あ、空堀があるなー。ふーん。
あ、排水口があるなー。へー。
とは気づいても、改めて言われると、目からウロコじゃんよ! ヨーヨーヨー(エコー)
ウロコ 。ɤ(◉_◉*)
というわけで、その時紹介されたものを中心に上田城見てまいりました。
この堀も、徳川氏により一度埋め立てられています。
大阪城と同じですね。そんな大阪城とは、2006年に友好城郭提携を結んでいるらしいです。
堀埋め立てられ友達(* ゚艸゚)ブハッ
いや、共通点はほかにもあるし、両方すばらしいお城ですが、初めて聞いたときはそう思ってしまったんですものorz
新緑が美しー季節ですね。
毛虫に注意しましょう。
知っていますか? 毛虫が肩や頭に落ちてきたら、それは偶然ではありません。
毛虫は動いているものを狙って落ちてくるそうです。
生き残りと勢力拡大のために、移動するのです。
風とか、落下速度とか、対象の移動速度を読んでいるに違いありません。
侮れませんね。
貴方はその毛虫に選ばれたのです!
・・・閑話休題。
二の丸外堀より行き着いた、尼が淵から、上田城を見上げてみましょう。
ブラタモリおなじみの河岸段丘です。
尼が淵とは、当時ここを流れていた千曲川支流です。
つまりここは川だった。
千曲川はたびたび氾濫していたので、修復の後がたくさん。
先ほど紹介した、空堀の裏側になります。
算木積みと呼ばれる、石垣の角の積み方。本来角になるハズのこの積み方が平面にある。
つまり、右が真田氏、左が仙石氏時代のものではないかというのです。
先ほどの排水口も見えます。
石の種類も違います。番組ではタモリさんが見ただけで言い当ててました。
すごいですねヽ(*´д`*)ノ
上の方が混ざっってしまっているのは、城割りの痕でしょうか。
・・・これは近代の修復かな? 石の切り口が直線です。
1枚に収められればよかったのですが、この3つ並んだそれぞれの角の積み方の違い。
奥が深いですね(*´︶`人)️
もう少し横に行けば、仙石氏の次の、松平氏の修復あともあります。
資材不足で低くなったと記録があるそうです。
西櫓の下にも、真田氏の痕跡らしきものが…。
尼が淵への逃走経路、水汲み場などではないかと推測されるそうです。
別の角度からも、こちらはライン入れてないので、ぜひ目を凝らしてみてください。
お次は、お城を北西にまわり、捨堀、百間堀へ
現在は、野球場・陸上競技場になっています。
ブラタモリでは、スタンドを作らなくてすんで、ナイス再利用! と言っていましたが、とにかく広い。
上田城は、ご存じのように、前半は上杉氏を警戒して徳川氏が援助し、
後半は、上杉氏が援助した「対徳川氏」のお城です。
長野県はあらゆる山に、山城があったといわれますが、その中でも、
上田城構築開始時には、上杉氏は警戒のため、虚空蔵山城に兵を集めたらしい。
その虚空蔵山が、ココ!
わずか、3.6kmの距離!!!! 標高差は、600m余 見下ろされてる!!
明かりも満足にないだろう戦国時代。見上げれば、星と一緒に、上杉氏の篝火が!??
鬨の声だって聞こえちゃう??
朝出発した斥候が、昼には後ろで刀を振り上げる近さ!!
コワイコワイ、マジ怖い!!((((゜Д゜;))))ガクガクブルブル
写真でもこんな近いのに、実際見るともっと肉薄しています。
(地平線に出たばかりの月が大きく見えるという錯視と同様ですね。山は近くに見えます)
いやいや、恐ろしすぎて、このくらいの堀、掘るよ! 掘っちゃうヨ。掘りまくるヨ!!
百間堀からもこんなに近い!!!
せっかくだからココは、元禄地図(城内案内板より)いれてみよー。
上下逆でーす。
前編掲載の、二の丸近辺の写真でも、こっそり見えている。何この見張られ感!!!
こんなところに城をつくる。すごいね、真田昌幸氏!
その、百間堀からの排水口。
江戸時代に、木枠から石枠になったらしいよ。
再度、尼が淵に降りてみましょう。
そんな堀を作った土がむき出しになっている場所があります。
2種類の地層があります。
下の方が河原の石。
上が、上田泥流層という、二万数千年前の浅間山の噴火でできた地層だそう。
大小不揃いな礫でできたこの層は、
やわらかく掘りやすいのに、崩れにくく、水を通しにくい。
堀を作るためにあるような土。
これを真田昌幸氏は見抜いていたのかもしれない!
城下町へ引き込んだ矢出沢川も、真田氏が掘ったものだそうな。
ブラタモリに出ていた専門家曰く、
水の流れをデザインできる地層。
お城づくりをデザイン!∑(★∀★)キュピーン
どこかで、聞いたフレーズ!
周囲の状況、足元を知り、移ろう世を渡る。そしてお城をデザイン!!
かくありたい かくありたいね!!
ブラタモリは、この後城下町の防御機能を紹介します。
写真撮れなかったから、ほかの写真のせとこー♪
それぞれ、門裏から 真田神社入口、旧藩邸門です。
地元のいつも見ているところも、視点をかえてみると、奥が深いね!
鶴瓶さんが紹介していた真田の里も、歴史あるところがたくさん。
テレビでは、リンゴ食べてただけだけどw
ぜひ行ってみたいですね。
やー 歩いた!
それでは、最後に、
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|ゝ |ゝ
Ⅱ Ⅱ 諸説アリ!
「イイネ!」もぽちっと(*・∀・)σΩ